2021年7月7日水曜日

メンバーズ(vol.5)

2021年秋刊行予定の『ゆめみるけんり』vol.5メンバーの紹介です。

◆名前
プロフィール/今回のテーマ「私からはじめる」から思いつく作品1つ/ひとこと/SNSアカウント
の順に並んでいます。

丸数字は、①「わたし」にとって一番大切なこと・瞬間、②「ゆめみるけんり」との関わりについて、③今回の寄稿作品の簡単な解説。

◆あおきりょう
HIV+で特定不能の広汎性発達障害持ちのゲイのおじさん。横浜DeNAベイスターズ、音楽、積ん読、週末銭湯、人間観察を好む。詩はスローペースで生み出すタイプ。/DREAMS COME TRUE「何度でも」/①そのときの気持ちについて他者に感化されずに正直であることです。②note「いま寄り添うためのことば by ゆめみるけんり+て、わた し」にて『この怒りを奪うな』を投稿しました。③2020年のコロナ禍から2021年2度目の緊急事態宣言・再延長の中で自分が感じたことを怒りが先行しながらも述べています。/twitter: @bluezlee_/note: bluezlee

◆秋本佑〔あきもとたすく〕
1988年生。言葉に興味があります。/中島みゆき『はじめまして』(1984年のアルバム)/いくつかの運命的な出会いによって、『ゆめみるけんり』に導かれたような気がしています。前号までは読者の立場でしたが、今号には寄稿者として参加できて嬉しいです。締めくくりの号に寄せるにはやや寂しい雰囲気の詩だったかもしれませんが、月を見上げる人間の姿に惹かれて訳してみました。

◆歩祐作〔あゆみゆうさく〕
一九九三年生まれ。オランダ国ヴァーヘニンゲン大学開発学修士課程卒。『ティーンズライフ』、『半熟卵のエンジン』(共に講談社)/ニーナ・シモン「Ain’t Got No, I Got Life」/閉じた、固まった社会であり、一年でした。だからこそ、窓を開けて、陽光に身体と心をほぐして、もう一度会いに行きたいのです。だれも遠足で行かないくらい遠く、ぼくらの他者、理解できない異星人に。

◆遠藤のぞみ〔えんどうのぞみ〕
1992年生。新潟県出身。司書。/ボルヘス「ボルヘスとわたし」(『創造者』所収)/はじめまして。遠藤のぞみと申します。小説を書かせていただきました。といっても、小説として成立しているかも不安な、拙い文章で組み上げられたものでとても恐縮なのですが、わたしの小説を読んで、あなたが幾ばくかのものを受け取っていただけたら、うれしく思います。よろしくお願いいたします。

◆奧村文音〔おくむらふみね〕
東京外国語大学博士課程在学中。フレーブニコフ及びロシア・アヴァンギャルドにおける“有機的文化”を研究。/A.スタンチンスキー「ピアノソナタ第2番」/「ゆめみるけんり」初参加です。ロシアの詩人フレーブニコフ(1885‐1922)の随想風の作品を訳しました。生涯にわたり、各地を文字通り彷徨い歩いていた彼の「わたし」の原点は、やはり故郷アストラハンをめぐる記憶に繋がっていきます。そして、この地でカスピ海に流れ込むヴォルガのように、滔々と流れるような独特の文体も、彼の散文の魅力の一つです。

◆Kamila Lin〔かみらりん〕
Я не считаю себя иллюстратором но творчество определенно живет в моей душе. Я очень люблю наблюдать, чувствовать и пропускать через себя этот мир, трансформировать и раскрыть его в своем творчестве. Без наблюдателя нет этого мира и мы ответственны за то, какой мир создаем. Я есть начало. Название этого тома навеяло мне воспоминания о фильме «I Origins» это произведение о бессмертии души, каждый конец это только новое начало. 〔自分がイラストレーターだとは思っていないけれど、創作することはたしかに私の心の中に息づいている。この世界を観察したり、感じたり、自分の中を通過させること、そして作品の中で世界を変形し、ほどくこと──そういうことが私はとても好きだ。/観察する誰かがいなければこの世界は存在しないし、その世界がどう造られてあるかということに責任を持つのは私たちだ。私とは、始まりだ。今回の特集からふと思い出したのは、『I Origins』という映画。魂の不滅にかんする作品。どんな終わりも、それはただ新しい始まりでしかない。〕(翻訳:工藤順)/instagram: @kamila_lin_

◆木下晴世〔きのしたはるよ〕
1948年生まれ。アフマートヴァの翻訳をしています。今回はパステルナークを訳してみました。/ショスタコーヴィチ「チェロ・ソナタニ短調 op.40」/パステルナークの詩について、アフマートヴァは、天地創造の六日間だけしかなく、人間がいないと言っています。しかし彼の詩を満たしている圧倒的な幸福感は人間あってこのそのものですから、表現されているのは歴史以前、主客分裂以前の無垢な世界感情としての喜びであり、目の覚めるような鮮烈な印象もそこからくるのだと思います。

◆工藤順〔くどうなお〕
1992年生まれ、ロシア語翻訳労働者。『チェヴェングール』刊行を目指して。/ウラジーミル・マヤコフスキー「ズボンを履いた雲」/最近、身体との付き合い方が変わる二つのきっかけがあった。一つは、漢方を試してみて、身体にあった小さな不具合がすっと楽になったこと。もう一つは、ずっと憧れていたワンピースやスカートを着て歩いてみたこと。どちらも私の輪郭をすこし揺らすような経験だった。/https://junkdough.wordpress.com

◆倉畑雄太〔くらはたゆうた〕
1992年に生まれました。/ティム・インゴルド『メイキング』/いつも「ゆめみるけんり」の頃には、翻訳なり創作なりの用意があります。不思議なシンクロか、ちょっとした焦燥感か、良いサイクルができています。これからもこの運動が続くのか、消えるのか、分かりはしないけれど、また別のものの胎動を待ちながら生活を続けます。

◆ことたび
翻訳文学同人雑誌「翻訳文学紀行」編集長、演劇ユニット「移動祝祭日」作家。「ことばのたび社」として、外国語×物語で生まれるちいさな贅沢を届ける活動をしています。/メルヴィル『書記バートルビー』/自分で作った食事と十分な睡眠、本を読んだり映画を観たりする時間。この三つは、自分の生命活動に必要不可欠なものだと思っているのですが、そういう人って少数派なんでしょうか……? ええ、たとえ少数派でも結構。わたしはこの軸が揺らがないように生きていくのみです。/note: kototabi

◆小林大志〔こばやしだいし〕
92年生まれ/志村ふくみ『晩禱—リルケを読む』/工藤とは大学一年の時に知り合った。もう10年たつ。世の中に背をむけて暗い自室に閉じこもるわけでも、「軽さ」に惹かれてあくがれ出でてそのまま帰らぬ人となるわけでもない、つまりは戦闘的な生き方、自分の感性と社会とのせめぎ合い、の中に身を置く人間であり続けたいと思う自分にとって工藤は同志ともいえる人間、そう勝手に思ってきた。逆流のさなかに身を置かなければゆめみるけんりなどという言葉は出てくるはずもない。最期(だよね?)にその戦いの仲間に入れてもらって、うれしく思います。

◆佐々木美佳〔ささきみか〕
映画や、映像や、文章を生業にしています。/最近観た『ノマドランド』/大事なことといえば、友人と関わる時間を持つことです。あとは8時間寝て、好きな人と美味しいものを食べること。寄稿する詩は自分が忙しすぎれ倒れるんじゃないかと思うとき、合間合間に書いていました。詩がギリギリの自分を支えてくれることが多々あります。詩を実践したくなって、寄稿しようと思いたちました。/twitter: @sonarpakhi43

◆佐々木樹〔ささきみき〕
詩人/美術家。1992年宮城県生まれ・2015年法政大学社会学部卒業・2017年日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻修了・2020年より秋田公立美術大学大学院博士課程複合芸術専攻在籍。写真と筆蹟を中心対象とし、ビジュアル観察法を用いた方法詩の制作を行う。/荒木経惟『センチメンタルな旅』/vol.4から2度目の参加になります。ゆめみるけんりは文学領域に始まり、ほか近接領域についても幅広く、そして温かく迎えてくれる場であり、このことに私はとても感謝しています。「表現とは何だろう」と少し考え込んでしまったときに、そっと支えてくれるような場として、私のうちに存在しています。/https://mikisasaki.com/

◆佐取優太〔さとりゆうた〕
1995年生。栃木県育ち。/イプセン『人形の家』/第4号から参加。今回は創作でいかがとのご厚意のもと、自由に書きました。とはいえこれにしようと思ったのは、私の中で、『ゆめみるけんり』といえば満員電車(の中で読む)……というイメージがあったからかもしれません。ちなみに帰京後に死んだのは立原道造です。

◆砂漠で生きる〔さばくでいきる〕
1人生活ユニットです。主に短編小説を書いています。/くるり「心のなかの悪魔」/ゆめみるけんりのために、五度短編小説を書き、五度苦しく、五度楽しかったです。これからもそうやって生きていければいいと思います。/twitter: @mstkaqrg

◆杉浦朋美〔すぎうらともみ〕
刺繍が好きです。メキシコが好きです。可愛いこと、もの、人が好きです。/大森美香(監督)『プール』/自力ではなく、他人や物に支えられ生きることを認める強さや逞しさ、愛おしさをこめてちくちくしました。/instagram: @cantarina_

◆清野公一〔せいのこういち〕
美術と露語翻訳を専門にしています。妻と二人で鳩棲舎(きゅうせいしゃ)という制作ユニットをやっています。/オールダス・ハクスレー『島』/妻と始めた活動でツイッターを担当してくれと頼まれ、仕方なしにやっていたら、同じく露語翻訳をやっているとんがった雰囲気の青年(らしい人物)とたまたまつながり、興味を持って彼の主催する読書会に出かけてみたら、たまたまとてもいい人だったという、奇跡と見まがうほどの偶然の連鎖でここにたどり着きました。

◆髙野由美〔たかのゆみ〕
絵を描いています。美しい物事は心の糧。多摩美術大学日本画専攻卒業。/金井美恵子『書くことのはじまりにむかって』/①その時々で変わりますが、大事な瞬間を見逃さないように努めること、でしょうか。花が咲きそうな時、とか、子供が何かを見つけた喜びの反応とか、観察する中でドキッと日常の線が揺れるような瞬間が好きです。/https://yoooo0oumi.wordpress.com/

◆tsugumi
美術大学映像学科卒業。広島県で印刷物を作っています。食、音楽、アートなどゆるゆると。/Oasis「Don't Look Back in Anger」/初号から表紙を担当させていただいた感謝を込めて、5年前の初号のデザインを意識して作りました。世の中はあれから随分変わりました。想うこと、発したい言葉、表現していくべきもの…… そんな魂の更新が、これからの自信につながる気がしています。「ゆめみるけんり」がずっと皆さんの心にあり続けますように。/instagram: @tgm_times

◆二宮大輔〔にのみやだいすけ〕
1981年愛媛県松山市生まれ、京都育ち、ローマ第三大学卒。翻訳、通訳、あとバンドもやってます。/柴田聡子「ニューポニーテール」/①教科書的な答えですが、家族との時間。②カライモブックスがつないでくれた縁です。③ものを書くときはどうあがいてもイタリアから逃げられないので、自己紹介を兼ねたイタリア語に関するエッセイを書きました。

◆藤澤大智〔ふじさわだいち〕
永遠の都にて月をあはれと思っています。/ゴンブローヴィッチ『日記』/三度お世話になりました。ゆめみるけんり、ありがとう!マリオ・アンドレア・リゴーニ(1948-)は、イタリアの作家、文芸批評家。レオパルディ研究者。シオランの弟子であり翻訳者。ジュゼッペ・レンシ(1871-1941)は、イタリアの懐疑主義思想家。弁護士業、政治活動を行なったのち、大学で哲学を教える。

◆ふじたみさと
主婦。ゆめみるけんりvol.1〜4に寄稿。絵を描いたり、文章を書いたりしています。/一冊だけ作られた私家版の本たち/私自身のなかに、わりきれないようなおもいや、うまくいえないようなおもいがありますが、そういうよわいものからはじめたいと、ずっとかんがえています。ゆめみるけんりでは、ペソアの『船乗り』、『アナーキスト・バンカー』という作品を訳したり、エッセイを書いたりしました。いろんな方とお会いできたことが、なによりうれしかったです。/tumblr: mfrgmnt

◆プロホロワ・マリア〔Мария Прохорова〕
ロシア出身。東京外国語大学博士課程在学中。言葉に関することを何でもやっています。/多和田葉子『雪の練習生』(特に「北極を想う日」という章)/今回の詩は両方「自分が変わること」をテーマとしていますが、変化に対する見方はそれぞれ全然違います。わざとこのように書いたのではなく、発見したときは私自身も驚きました。変わることへの気持ちは、その時その時によって自然に変わっていくみたいですね。今は変わりたいと思っていても、明日は変わらない自分を求めるかもしれません。気持ちも自分も「固定値」ではありません。

◆堀谷加佳留〔ほりやかける〕
2017年東京外国語大学大学院博士前期課程卒トルコ語専攻/(最近読んだものだと)プラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』/①深く快適な睡眠・健康維持。②第一号開始時から(工藤さん個人とは、院生時代にトークイベントのお誘いを受けて以来)ずっと羨望の眼差しでみていた『ゆめみるけんり』制作に漸く加わることが出来ました。工藤さん、その他制作陣の皆様に尽きぬ敬意と感謝の念を。翻訳できるまで待ってくれて本当にありがとうございました。

◆もう一つの椅子〔もうひとつのいす〕
「いる」を「する」場所をつくるアート活動とランドスケープ(風景)の在野研究者。/ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』/路上観察をベースにした研究のアイデアを人に話していたら、なぜ風景に関心を持つようになったか質問されたがわからなかった。いつからか、わたしは日常の風景を自分の中に刻み込んで生きていた。

2021年5月15日土曜日

コンテンツ(vol.5)

『ゆめみるけんり』vol.5:目次


カライモブックス(京都)インタヴュー「割り切れへんもんは余らしといたらいい」

◆特集:わたしから始める

小林大志「わたしたちに肉体があったころ」
遠藤のぞみ「わたしについて」
レオニート・アンドレーエフ/清野公一「ヴァーリャ」
歩祐作「エイリアンズ」
ヴェリミール・フレーブニコフ/奥村文音「子供時代のことから話すべきだろうか?……」
佐々木美佳「全ての可能性を否定するものへ」
佐取優太「青さ涯しなく」
アンドレイ・プラトーノフ/工藤順「タムボフからの手紙」
倉畑雄太「カーニバル」
砂漠で生きる「ニコール」
プロホロワ・マリア「変身する鳥/教えてよ」
髙野由美「Mother and child statue」ほか(作品に寄せて)
杉浦朋美「Repair」
李白・杜甫/秋本佑「李杜の詩をよむ」
もう一つの椅子「風景を刻む」
二宮大輔「イオと私をめぐる考察」
マリオ・アンドレア・リゴーニ/藤澤大智「草に囲まれて」
ボリス・パステルナーク/きのしたはるよ「パステルナーク詩撰」
ブルハン・ソンメズ/堀谷加佳留「イスタンブル・イスタンブル[第一部]」
ジュゼッペ・レンシ/藤澤大智「『わが痕跡』より抜粋」(エピグラムとして)

◆手紙を浮かべる/Letters afloat

ことたび(翻訳文学紀行)×ふじたみさと

◆特集2:海辺で凪を待ちながら

Kamila Lin「海辺で凪を待つ」
「いま寄り添うためのことばを」(山口勲×工藤順)
あおきりょう「緊急事態詩3篇」
佐々木樹「〈いま寄り添うための言葉の前で〉」
青柳菜摘さん(コ本や honkbooks)×山口勲さん(てわたしブックス)×工藤順「ゆめをてわたす vol.2」

◆補遺

ふじたみさと「声、ざわめき、フェルナンド・ぺソア」
カジミール・マレーヴィチ/工藤順「怠惰は人類の本性です」

「ゆめみるけんり」総目次


Table of Contents for the “yumemirukenri” vol.5


Interview: “Let the remainders be remained” (Karaimo Books, Kyoto)

◆issue: Я — начало

- Daishi Kobayashi “Once we had bodies”
- Nozomi Endo “On me”
- Леонид Андреев / Коичи Сэйно «Валя»
- Yusaku Ayumi “Aliens”
- Велимир Хлебников / Фуминэ Окумура «Нужно ли начинать рассказ с детства?..»
- Mika Sasaki “To All Those who Denies Possibilities”
- Yuta Satori “Blue Is the Night”
- Андрей Платонов / Нао Кудо «Письмо из Тамбова, 1927г.»
- Yuta Kurahata “Carnival”
- sabaku de ikiru “Nicole”
- Мария Прохорова «Птичка», «Скажите же!»
- Tomomi Sugiura “Repair”
- Yumi Takano “Mother and child statue etc.”
- 李白、杜甫/秋本佑(Tasuku Akimoto)《読李杜詩》
- mou hitotsu no isu “Engraving what I see”
- Daisuke Ninomiya “Considerazioni tra io e watashi”
- Mario Andrea Rigoni / Daichi Fujisawa “Tra le erbe”
- Борис Пастернак / Харуё Киносита «Избранные стихотворения»
- Burhan Sönmez / Kakeru Horiya “İstanbul İstanbul”
- Giuseppe Rensi / Daichi Fujisawa “Impronte”

◆Letters afloat

- Kototabi (editor of zine “Honyaku Bungaku Kikou”) + Misato Fujita

◆issue 2: Ждать у моря погоды

- Kamila Lin «Ждать у моря погоды»
- A note on “Words that stand with you” in time of the emergency declaration (Isao Yamaguchi + Nao Kudo)
- Ryo Aoki “Poetry”
- Miki Sasaki “〈In front of the words who snuggle up with, now〉”
- Event Report: Yume wo tewatasu vol.2 (Natsumi Aoyagi (Kohonya honkbooks, Tokyo) + Isao Yamaguchi (Tewatashi Books) + Nao Kudo)

◆et cetera

- Misato Fujita “목소리, 소곤거림, 페르난두 페소아”
- Казимир Малевич / Нао Кудо «Лень как действительная истина человечества»

Index of contents of yumemirukenri vols.1-5

『ゆめみるけんり』vol.5

詩と生活のzine『ゆめみるけんり』の新刊を刊行します。vol.5の特集は「わたしから始める」です。 『ゆめみるけんり』は、今回のvol.5を刊行の一区切りとします。一度来し方を振り返り、今後のステップを考えるために必要な時間を確保するためです。

★2021年9月:書店での販売を開始しました!取り扱い書店等については、[こちら]をご参照ください★

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「ゆめみるけんり」vol.5


特集:わたしから始める(2021年9月発売) 

コンテンツ:vol.5の目次です。table of contents for vol.5
メンバーズ:vol.5に参加する人たちの紹介。members

The new, last issue (vol.5) of our zine “yumemirukenri” is out now. See the list of bookstores: here.

*vol.5については、Kindle版は作りません。理由はいろいろあるのですが、今回の号は特に紙で・書店で手に取っていただきたいことがいちばん大きな理由です。Amazonはやめて、書店で買おう。

お問い合わせはdroit.de.yumemir*gmail.com(*を@に変えてください)まで。
Contact: droit.de.yumemir*gmail.com

〈vol.5によせて/Foreword for vol.5〉

「けれども、私が欠けたら民衆は不完全だ」(アンドレイ・プラトーノフ) 

X月X日。感染者数XX人。死者XX人。

この年に私たちはみな自粛を経験することで、一度零地点に、「自分ひとりの部屋」に、戻ることになった。予定していた生の歩みが止まった。いまいち実感のない薄い死が至るところに澱み、わたくし事に大義を優先することを強いられた。それが必要であることは分かってはいるけれど、どことなく腑に落ちない感覚を誰しもが持ったのだろう。だからだろうか、説明し脅かす言葉は氾濫し、何もわからない時に、せめて何も言わないほどの倫理を持つことがないまま、無自覚に傷つけることをやめない。そうした言葉たちが私たちの感覚の上辺を撫でることもあったが、結局は一瞬で消えていった。

しかし、何かを「言うとき、命令の言葉と、契約の言葉と、説明の言葉しかないのだろうか。そんなことはないはずだ」(立岩真也)という信念を共有するとき、私たちにはもう一度始めることができる。もう一度、何ごとかを言うことができる。そんなはずはない、こんなものであるはずがない、と。遠くの他人に石を投げるよりも前に、例えば、隣で眠る人に毛布を掛けてやることが、私たちにはできる。行為で。言葉で。ただ居ることで。

そしてもう一度始めようとするならば、今・ここから始めるほかはない。つまり、わたしから始めることだ──わたしが触れ、見、聞き、嗅ぎ、味わうような距離(ディスタンス)零cmのわたしの世界、つまり身体をもう一度感じてみるところから。わたしであることは難しい。けれども、この小さな部屋にわたしが確かに在るのだと、それを確信してはじめて、そっと手紙を出すように、窓を開けるように、もう一度わたしには理解のし難いもの、つまり他者に出会いにゆけるのだろう。

他者と出会うことは、危険でないことがなかった。だから私たちは挨拶を発明し、握手を、キスを発明した。リスクを取り交わすことで、他者は他者のまま、隣り立つ人になり得てきたのではなかっただろうか。そして時に、その隣り立つ人が、窮極的には他者であることは変わらないながらなお、いや、そうであるからこそいっそう、自分が自分であるために欠かせない存在になることもあった。そして時に、私たちはそれを愛と呼ぶことがあった。

私たちはお互いに一人であり、一人であり続けながら、その一人どうしが変わり、変えてゆく──その「間」に成り立つ一人ならざるもの、一人からすこしはみ出る隙間が社会と呼ばれる。あるいは、その空隙を埋めるものを、想像力と呼ぶ。私たちはいつまでも諒解しつくしてしまうことがないし、そのことをどこかで望んでもいる。「変えられないものを受け入れ(……)受け入れられないものを変える」(宇多田ヒカル)こと、永遠のその妥協と闘いと調整、それを通してでなければ社会は成り立たないのではなかっただろうか。

変わることへの勇気と、変えることへの勇気。それが欠けた時に、私たちは他者を迎え入れることをやめる。そして他者を迎えることがないとすれば、わたしはわたしであることをやめることがない。しかしそれでは生に満足できないことを知っているからこそ、私たちは他人と出会うのだし、景色を眺めるのだし、外国語を学ぶのだし、映画を観るのだし、文学を読み書くのだし、料理を作るのだし、SNSをやるのだし、歌を聴くのだし、働くのだし、絵を描くのだし、写真を撮るのだし、酒を飲むのだし、服を着るのだし、化粧をするのだし、神を信じるのだし、詩を読むのだ。分かりみを受け取り、そして分かりみをなお超えたところにこそ、わたしに迫ってくるような生きていることの実感がある。というような実感がある。

世界は変わったし、変わりゆくが、私たちも変わってみたい。しかし変わる時の私たちは、いつだって私たちのままだったね。いつも私たちは私たちから始めたのだったし、それ以外に始めようがなかった。これからもきっとそうだ。それは変わることがない。いつもまたここから始めよう。ここ──つまり、「わたし」から。 

工藤 順

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But without me, the people are incomplete! — Andrei Platonov


2020.XX.XX. infected: XXX people. dead: XXX people. 2020.XX.XX. ...

In this year, having experienced self-isolation, we all had to return to the point Zero or, to the Room of my own. The planned steps of life had to be stopped. A thin sense of death floated around us, and we were forced to put a great cause above personal matters. We knew it was necessary, though, we couldn’t fully be convinced with that. Maybe because of it, the words of explanation or of threat, which lack the minimal moral to say nothing when you don’t understand nothing, overflow and don’t cease to harm someone carelessly. These words sometimes might have touched the surface of our senses, but after all, they have faded away in a moment.

However, when we stand with a belief of S. Tateiwa, who once said “when we say something, is it impossible to say without using the words of order, dealing or explanation? No, it’s definitely not,” we can start again. We can re-start saying something different, like: “It cannot be like that,” or “This is not what I want.” Before throwing stones to others in the distance, we can, for example, cover the one who sleeps next to you with a blanket through acting, through words or by just being there.

And when we start, we can only start from now and here — namely from me, from the distance-zero world of mine, where I touch, see, hear, smell and taste — that is, from sensing my body again. We know it is difficult to be myself. However, I think we can go meeting with the ones who are beyond my understanding, that is, the others, only when I certainly know that I am here in my tiny room. Like sending letters, or like opening windows.

It always has been dangerous to meet with the others. That was why we invented greetings, hand-shaking or kisses. Isn’t it possible to say that we can stand with the others, who is nothing but the other to me, only by sharing the risks each other? And we know the others sometimes have become the essential ones for me to be myself, at the same time the others not stopping being the others — or more likely to say, the others are essential to me BECAUSE the other is the other. And we sometimes called it a “love.” 

We are just divided ones each other, and continuing to be so, the ones change themselves and change each other. The void among the ones, which stands a bit over the ones, might be called the society. And the thing which fills in the void might be called the imagination. We do not completely comprehend the others forever, and to some extent, this is just what we want. The society cannot be made without “accepting the unchangeable ... and changing the unacceptable,” (Hikaru Utada) without such kind of compromise, struggle and adjustment between them — we may now know.

The courage to change myself, and each other. When we lack the courage, we stop welcoming others. And we stop welcoming others, I don't stop being just me. But we know we can’t be satisfied with life without others. That is why we meet with others, travel, learn foreign languages, watch movies, read and write literature, cook, use SNS, listen to music, work, draw paintings, take photos, drink, wear, make ourselves up, believe in God, and read poems. I have a sense that in what is beyond our understandings rather than in what we put likes, we hold the urging sense of being.

The world has changed and keeps changing, and we also want to change. But in changing, we don't stop being me. We always have started from ourselves. There were no other ways. And it continues to be just so. It won’t change. Let us start from here always again. Here — that is, from me.

Nao Kudo


vol.5のプレイリストです。読書のおともにどうぞ。