ヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』(片山亜紀訳、平凡社)を読んで、「これはzineだ」と思いました。
「ゆめみるけんり」を出すにあたって同人誌と言うのがなんだかダサいので、格好つけてzineと呼んでみたのですが、それでは「zineってなに?」と聞かれると、自分がなに一つわかっていないということが明らかになってしまいます。zineってなんでしょう。
自分で「ゆめみるけんり」というzineをスタートさせる前後に、数冊のzineとの出会いがありました。その中でも愛おしく感じているものが、中里仁美さんの発行するzine『善き門外漢』です。「パーソナルかつエモーショナル」を掲げるこの小さな本は、コンテンツも読ませるもの揃いで、いろいろな人に読んでもらいたいなあと思うのですが、中里さんの考え方に共感できるところが多かったので、その辺についてすこし書きたいと思います。
「パーソナルかつエモーショナル」ということ。
英語で「Have your say.(ご意見募集)」という言い方がありますが、出版社を通じて本を出すことには、「I have my say.」というニュアンスを感じます。日本語では「世に問う」とよく言いますが、そんな感じも込みで。「言いたいこと」が確固としてあり、それを著者である「おれ」の責任のもとで世に出すという感じがします。
そうして広く世に問われた本には並ならぬ覚悟があり、ゆえに読み応えのあるものになります。そういう出版物に価値を感じることは当然のことですが、ただ、それだけじゃないだろうとは思います。
「言いたいこと」になりきらない「感じ」とか、「空気」とか、「変」とか、「愛」とか。それは、わたしの考えでは、ひじょうに個人的なものだし、感覚的なものです。社会生活のなかでは、そうした個人的な感覚の行き場所はなかなかありません。zineは、そうした「個人的かつ感覚(感情)的」=「パーソナルかつエモーショナル」なものの受け皿としてあるのではなかったでしょうか。
「でも、SNSやwebメディアがzineの役割を果たし得るんじゃないですか?」わたしはそうは思いません。というのは、自分でつくってみて感じたことですが、zineを印刷し、出版することには、SNSにはない重みと時差があるからです。SNSでは思いついたことをすぐに全世界にむけて発表することができます(その自覚があるかないかはわかりません)。しかしzineをつくるには、企画し、原稿を集め、判型を決め、デザインを決め、お金をかけて印刷をし、書店に持って行き……というさまざまな大変さがついてきます。出版社から出版するほどの覚悟はいりませんが、自分の出版するものに何万かのお金を費やすとき、また書店に持ち込みをするときに、「おまえはそれをするだけの覚悟があるのか?」「それに見合うだけの中身があるのか?」という声を内側で聞きます。また、こうしたプロセスを経ることで、zineの出版にはかならず時差が生じます。すこしずつ遅れて届くということです。これは、即(時)レス(ポンス)を求められることの多くなったいま、zineをつくることで気づくことができた、大切にしたい時間の流れ方です。
『善き門外漢』がすごいのは、たった一人のひとの「パーソナルかつエモーショナル」なものを表現する、それだけでもう(現在のところ)3冊も本を出してしまえるのだ、という事実ではないでしょうか。もちろん中里さんという個人のおもしろさ、ふかさも大きく関係しているのですが、ここには大きな勇気をもらいます。ほんとうは人はこんなに言いたいこと(でもふだんは「感じ」に留まっているようなこと)がたくさんあり、もしかしたら誰だって本の一冊や二冊出せるくらいのなにか、「感じ」を抱えているのかもしれません。
ウルフは頭のいい女性ですから、『自分ひとりの部屋』を書いても(悪い意味で言われる)「感情的」にはなりませんでしたが、それでもやはりこの本はとても個人的な感覚から成り立っているようにおもいます。そして(すぐれた訳文も手伝って)そうした感覚の表出(それは「論」とか「言明」未満です)は、とても心地よく、それでいて強く、こころに染み込むように馴染むもので、「なんて魅力的な文章なんだろう」と、読んでいる最中に何度も感嘆してしまいました。これもやはり、1929年当時のzineなのだとわたしは感じました。
それから昨日コ本やさんでおしゃべりをしながら気づいたのですが、zineを出すということは、たぶんそのzineを買ってくれる人もいるということです。一般に出版社から出されている本であれば、手にとって購入し読む契機・要因ってとてもたくさんあると思います。新聞広告を読んだ、人から聞いた、twitterでみた、著者の名前を知っていた、、、。一方でzineとの出会いは、おそらく書店店頭で起こるのがほとんどではないでしょうか。zineを手に取り購入する行為は、ほとんど読者個人の興味と関心にのみ裏打ちされています。一冊のzineを介して、宣伝に踊らされる以前の生身の人間と人間がコミュニケートすることになる。そうわたしは思いました。デリダを引き合いに出すまでもなく、ひとが「語る」ためには、絶対に「2人以上必要」なのです。
そんなわけでzineというメディアには、なかなか真顔で真剣に語り合えないわたしたちが、個人的で感覚的なものを通してコミュニケートする一つの「場」であるとも言えるかもしれません。
大学を卒業して以来、「ここではない場所」「仕事と家のあいだの場所」ということを個人的に考え続けているのですが、zineがひとつの回答になるかもしれない、実際にどこかの住所に場所をもつということにこだわらなくてもいいのかもしれない、と考えました。
そういう話でした。
*ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』:http://www.heibonsha.co.jp/book/b201163.html
*『善き門外漢』:http://yokimongaikan.com
*ジャック・デリダ『名を救う』:http://www.miraisha.co.jp/np/isbn/9784624932534
(工藤杳)
0 件のコメント:
コメントを投稿